松山城のひみつ
知っていたらお城めぐりがさらに面白くなるようなポイントを紹介します。
松山城の紋章
城内展示物:長持
松山城の天守の紋章は、江戸幕府の将軍、徳川家とゆかりのある「丸に三つ葉葵」(三つ葉左葵巴)となっています。
松山城の築城に着手したのは、西国大名であった加藤嘉明ですが、広大な平山城の完成直前に会津藩へ転封となり、次に城主となった蒲生忠知が二之丸などを完成させましたが、跡継ぎがいなかったため在藩7年で断絶してしまいます。そして、1635年に松平定行が城主となり、それ以降、明治維新までの235年間に渡り松山は四国の親藩としての役目も担いました。定行は本壇を改築し、三重の連立式天守を築造しましたが、1784年の落雷で焼失。その後、1852年に再建されました。
これが今の松山城天守で、現存12天守の中では、唯一、親藩(松平氏)が建築し、「丸に三つ葉葵」(通称:葵の御紋)が付された城郭となっており、わが国最後の完全な城郭建築である天守は、黒船来航の前年に再建されたことになります。
松山藩の松平家は、明治政府より旧姓である久松(家紋は星梅鉢)を名乗るように命じられ、華族に列せられた後、1923年(大正12年)に松山城を松山市へ寄贈しました。当時、二之丸と堀之内は陸軍省の管轄で、一般市民の自由な立ち入りはできませんでした。
歴代家紋と現在の天守
天丸とまつ姫
重要文化財である天守は、平成16年から平成18年にかけて保存修理工事を行いました。松山城の「しゃちほこ」の材質は瓦ですが、標高約160mの位置で風雨や寒暖にさらされているため、81年目で交替しました。現存天守の建造が1852年であることを考え合わせると、今回の「しゃちほこ」は3~4代目といったところでしょうか。
新調されたしゃちほこの愛称を平成18年に全国へ公募したところ、南側(一ノ門から見える方)のしゃちほこが「天丸」、北側のしゃちほこが「まつ姫」と命名されました。この一対のしゃちほこが松山城のてっぺんから松山を見守っています。また、平成18年6月には市長から「お城の住民票」の交付を受けました。
名称 | 大きさ (高×幅×奥行) |
重さ | 場所 | 特徴 |
---|---|---|---|---|
天丸 | 125cm×80cm×50cm | 137.55kg | 南隅 | 玉をくわえている |
まつ姫 | 125cm×80cm×50cm | 132.85kg | 北隅 | 口を閉じている |
侍の似顔絵
平成16年10月から平成18年11月まで、松山城の重要文化財である天守などを保全するための大規模な修復工事が行われました。これは、白ありによる被害の拡大や年数経過による瓦や壁などの傷みが大きくなったためで「平成の大改修」とも言われました。
この工事の過程で発見されたのが、江戸時代に下見板の裏面へ墨で描いたと思われる侍の似顔絵です。この板が使われていた場所(天守の2階)から推測すると、焼失後の天守本壇の再建時(1848年~1852年)の落書きだと考えられています。また、ここに描かれているのは誰なのかは分かりませんが、上から見た侍が紋の付いた「かみしも」を着用していることから、工事の指揮・監督をしていた作事奉行かもしれません。この下見板は天守内に展示してあります。
松山城天守の不思議
天守とは戦闘のときにこそ、その存在価値があるのです。防衛の要として一大事のときにだけ籠城。日ごろは城主やその側近らが足を踏み入れることもなく、生活の場ではないのでトイレも炊事場もありません。床は板張りで天井板もないのが通例です。ところが松山城は一重、二重、三重とも天井板があり、畳の敷ける構造になっているのです。さらには床の間もしつらえられ、襖を入れるための敷居まであります。これは何を意味するのでしょう。当時の城主、松平勝善はここを何の用途にしようとしたのか、定ではありません。