創設

加藤嘉明 (かとう よしあき)
松山城の創設者は加藤嘉明です。嘉明は羽柴秀吉に見出されてその家臣となり、20才の時に賤ヶ岳の合戦において活躍し、七本槍の一人としても有名となりました。
慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いにおいて徳川家康側に従軍し、その戦功を認められて20万石となります。そこで嘉明は同7年に道後平野の中枢部にある勝山に城郭を築くため、普請奉行に足立重信を命じて地割を行い工事に着手します。翌8年(1603)10月に嘉明は居を新城下に移し、初めて松山という名称が公にされました。その後も工事は継続され、四半世紀の後にようやく完成します。
しかし嘉明は松山にあること25年、寛永4年(1627)に会津へ転封されることになりました。
江戸時代から現存する天守
そのあとへ蒲生氏郷の孫・忠知が出羽国(山形県)上山城から入国し、二之丸の築造を完成しましたが、寛永11年8月参勤交代の途中、在城7年目に京都で病没し、嗣子がいないので断絶します。
その後寛永12年(1635)7月、伊勢国(三重県)桑名城主松平定行が松山藩主15万石に封じられて以来、14代世襲して明治維新に至りました。
なお定行は寛永19年(1642)に本壇を改築し、三重の連立式天守を築造しました。しかし天明4年(1784)元旦に落雷で焼失したので、文政3年(1820)から再建工事に着手し、33年の歳月を経て嘉永5年(1852)に再建しました(安政元年(1854)に落成式典)。これが現在の天守です。
現在へ
その後、昭和に入り小天守やその他の櫓が放火や戦災などのため焼失しましたが、昭和41年から全国にも例を見ない総木造による復元が進められました。
